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大沢の朝比奈三郎伝説が残っている割石(田尻郷土研究会郷土誌より)。内容は、三郎が一本足駄で強弓の弦を引こうと踏ん張ったところ、山の岩盤真っ二つに避けたとか。この裂け岩こそが割れ石の名の生まれた所以であると、つたえられているそうな。さて、一体この矢はどこに放たれたのか?それは、今の薬莱山に命中し、訪ね回ったが矢の姿も形も無いことから、この山が矢を食らったに違いないとし、矢食山と呼んだとか云い伝へられている。

大沢の新堤から300m程のところで再発見をした。昨年に一度踏査を試みるも発見できずにいた。新緑の季節になると発見しにくいので今日、友人の軽トラックで堤までいった。そこでは、車中で友人の知り合いが大沢にいて、その人に聞いてから行こうとか話していた人が、偶然にも堤でばっけ(ふきのうとう)取りをしていたのだ。不思議なものである。これは、吉兆ではないか?と一瞬思った。

しかし、前回は林道を涌谷町に入るくらいまで歩きに歩いて発見できなかったため、小学時代のかすかな記憶から、今回は堤から少し林道を入ったところで斜め右方向の細い竹林をかき分け進んだ。途中からは急こう配(70度)で竹を掴みながら、むくれ落ちないように必死での登攀の連続であった。そして、ある山を登りきったところ、なんと、そこは、前回通ったと思われる林道に出ただけであった。

疲労困憊状態ではあったが、近くの小山で雰囲気が似てそうなところを探したが、見つけることができなかった。仕方なく、この林道が前回と同じであれば、堤を目指して帰ろうということになった。やり切れないまま歩いていると、なんだか、沢の近くの壁が割れ石に似ているような処を発見した。もう堤までは300mほどであった。しかし、喉も乾いていたため、一旦堤まで戻り、水分補給を行い再びその地点まで戻った。そして、その沢まで100m弱位であろうか、下ってたどり着き、やはり、雰囲気が似ていたのである。

3m程の岩が眼前にあり、奥には何やら岩で囲まれている空間がある模様。普通では登り切れないような岩である。しかし、手前には、幸い蔦が這っている為、登れそうである。ワクワクしながら蔦を手繰り寄せ、登って中を除くと、ああ、これが、割れ石かもしれないと思われる風景が飛び込んできた。

当時と違っていたのは、地震のせいであろうか?土砂で2~3m位、下の部分が覆われている為、若干イメージが違った様に感じたのであった。時間が経つにつれ、当時の地面をイメージするとやはり、ここが割れ石なのだと結論づけるしかなかった。と同時に見つけた喜びと安ど感が押し寄せてくるのであった。

次にはこの石の上には木が生えているのである。小学当時に、割石に来た証明として、木の幹に彫刻刀で自分の名前を彫ったものなのである。私も、漆の木を避け、デカい字で名を刻んだのであった。その次に行ってみたらば、実は漆の木に名を彫っていたので、当時ビックリした記憶がある。草等には負けやすかったが、何故か漆にかせたことはなかったから不思議である。

当然、その名前の確認、本当に漆の木かの確認をしたかったが、どうやって割石の上に登ればいいかがわからず、疲れていることもあり、次回に楽しみを残すことにしたのであった。